2011年9月24日土曜日
インターネットは大海と思っていたが、どうやら大陸に囲まれた内海なのかと思えてきた。(橘川幸夫)
パソコン通信からインターネットへ飛躍した時、世界が大きな海のようなものだと思った。僕たちは、川の時代を終えて海にたどり着いた、と当時、書いたことがある。世界中から無数の人が、ひとつの大きな海に流れついてくる時代がはじまったと思った。
確かに意識のうちではそうである。しかし、現実はまだそこまでたどり着いていないのかも知れない。インターネットは世界を結ぶ大海ではなく、大陸に囲まれた黒海やカスピ海のような内海ではないかと思うようになった。大陸とは何か。大陸とは、固くしぶとい旧い体制であり、旧い組織や国家である。
インターネット上には、あらゆる情報や問題意識が集結している。僕たちは、自分のファンクションキーをコントロールすることで、自由にインターネット上の情報を収拾できる。そして、誰もが自分の思いを発信することが出来る。
しかし、自分の思いを発信しても、受け取る受け取らないは別として、受け取る可能性を持っているのは、すべての人ではない。インターネットにアクセスしている人だけである。僕の実感として、インターネットを自由自在に操っているのは、多くても人口の3割ぐらいではないかと思う。残りの人たちはどこにいるか。大陸の上にいるのだ。
大陸のメディアは依然として、テレビであり新聞であり書籍であり映画である。インターネット住民の多くも、生活の糧は大陸上での仕事だと思う。インターネット上で、どれだけ盛り上がっても、それがそのまま国民全体に広がることはない。広がる場合は、ネット上のネタを新聞やテレビが話題にして広げた場合だけである。
以前に「電車男」が話題になった。僕たちは、その話題がネットの中を循環していたので知っていたが、一般の人は知らなかった。彼らが知ったのは、ネットのネタが書籍化されて、テレビドラマ化され、映画化され、マンガ化され、舞台化されることによってである。ネットのライブを知っている人間は、本も買わなかっただろうし、映画を見る気にはならなかっただろう。
インターネット上の出来事を世の中そのものと思い込むと、判断を誤ることがありそうだ。1万人のデモに参加すると、ものすごく大きな意志の共同体に参加している気持ちになるし、3万人いたらもっと凄いし、10万人規模だと、めまいがするほど高揚する。しかし、それは国民全体からすれば、小さな池なのである。
まだまだインターネットは始まったばかりだと思う。そして、大陸のメディアは相変わらず強固である。インターネットで発見し、議論し、創造したものを、ネットの中で完結するだけではなく、大陸のメディアに対して攻め上げていかなければならないのではないか。
既存の新聞、書籍、テレビ、映画などの頭脳(メタブレーン)としてのインターネットの役割を、もういちど、考えてみたい。本当に伝えるべき人たちは、大陸の上にいるのかも知れないのだから。
(橘川幸夫)